香りと記憶
東京で初雪を観測した日、窓の外の雪景色を眺めながら静かなオフィスで仕事をしていると、ふいに香りをそばに置きたくなった。精油箱から手にとった精油はシダーウッドとレモン。数滴ずつ調香紙に滴下すると、白い空に同調するように清らかな澄んだ香りが立ち昇る。
精油には性格がある。明確に言葉にすることは難しいが、人にそれぞれ性格があるように。周囲が明るくなるような華やかなタイプから、控えめだけれど頼りになるタイプもいる。ボトルをあけ、香りを感じながら、その時の一緒に過ごいたいキャラクターを選ぶ。そんな時間を私は『香りあそび』と呼んでいる。
『香りあそび』は作用にかまわず香りと戯れる時間。この仕事をしていなければ、目の前に世界各国の植物から集められた精油たちが並んでいることなどないだろう。モロッコ産のシダーウッドとシシリー産のレモンだって、まさかここで出会うことになるとは思いもしなっただろう。それだけで心が躍る。
クライアントとのやりとりで、好きな香りや思い出の香りを聞くことがある。もうずいぶん前のことだが、「好きな香りはありますか?」と聞くと「きゅうりの香りが大好きよ」と答えた方がいた。理由を聞くと、こんな話を聞かせてくれた。
私は北海道の生まれで、大きな家で育ったの。夏休みになると近所の家の子どもたちがたくさん集まってねぇ。昔のことだからね、夏のおやつといったら野菜や果物よ。母が氷をはった大鍋にきゅうりを山ほど入れておいてくれてね、学校から帰るとまずはきゅうりにかじりついたわ。それから外で夢中で遊んだの。きゅうりに包丁を入れると水々しい香りがするでしょう。そうすると今でも夏休みの思い出が鮮やかに浮かんできてね、なつかしい、なんともいえない気分になるのよ。だからきゅうりの香りが大好きなの。
またある方はこんな話を聞かせてくれた。少年だった頃、好きな女の子の姿をひと目みようと、その子の家の近くの茂みに隠れて帰りを待っていたんだ。むっとするような青い草と湿った土の入り混じった香りの中で、いまかいまかと高鳴る胸。あれこそまさに初恋の香り!と。
一般的によい香りではなくても、大切な記憶に紐づけられた香りは「好ましい香り」になることが分かっている。それは嗅覚が脳の感情の部屋(け扁桃体)に伝わり、記憶の部屋(海馬)とも連携をとっているから。
「好きな香りは?」と聞かれて、すらすら答えられる人のほうが少ない。あるストレスフルな方に同じ質問をしたら「分からない、意識したことがない」と即答。きっと常に理性が勝っていて感情の部屋にアクセスするのが億劫だったのだろう。
好きな音楽を思うときのように、香りに対してのイメージは曖昧なものだから、それを表現するには普段使わないエネルギーを使う。理性と本能の行き来を抑圧していない人にとっては難しくないのだろう。だから時たま出会う印象的な答えはアロマセラピストを楽しませ、いつまでも忘れることができない。
ここで『香りあそび』。前述の”青春の香り”を精油で表現してみよう。
香りの中心は湿った土を連想させるベチバー。ベチバーはインド、ハイチ、ジャワなどの熱帯地域に自生するイネ科の野草。生育旺盛で、草丈は2、3mにもなり、深い根をはる。葉には芳香がなく、根に芳香をもち、水蒸気蒸留で精油が得られる。インドではベチバーの根で編んだ日よけを軒先に立てかけ、暑い日中に水を撒く。そうすると精油が揮発し、香りがたちこめる。その芳香は虫よけにもなるので、芳しい網戸となる。
琥珀色の粘性の強い液体は、ブレンドボトルにもったりと落ち、アルコールに溶け始めるとスモーキーな香りを放つ。ベチバーは香水業界でも重宝され、シャネルNO.5ではベースノートとしても使われている。
もうひとつの土の要素はパチュリー。インドネシア原産のシソ科の多年草の葉から得られる。ベチバーより甘さのある墨汁にも似た香り。私はベチバーより女性的だと感じる、秋冬になるとクローゼットにストールを閉じ込め、パチュリーを薫香する。生地がほのかに香りを纏う。これまた虫食い防止にもなる。
青臭い雑草の要素にはニアウリを選んだ。オーストラリアに広く自生する高木。クリアでしみとおるような香り。新鮮で良質な精油はフルーティさも合わせもつ。アンバーボトルにスピリタスを入れ、3つの精油を香りのバランスを確かめながら滴下する。「香りあそび」のもっとも心躍る瞬間。
よくなじませたら少量の精製水を入れると香水が出来上がる。持ち歩いているうちに精油同士の仲が深まり、香りも深まる。気分転換したいときや寝る前に、脈につけたり、枕元に香らせて使う。1日何度つかってもよい。1日に何度も、懐かしさに心あたたまる瞬間を味わえたら、心にも体にも良さそうである。